天草・下田温泉の旅館「五足のくつ」は、九州は熊本にあり、離れの各客室に自家源泉・かけ流しの露天風呂が付く。天草四郎ゆかりの地。

 彼にとって旅の最大の醍醐味は、
誰にも邪魔されず、空想に浸ることである。
ヨーロッパのカフェで人ごみを眺めながら、
また、アジアの真っ青な空の下でビールを飲みながら。
ぼーっと、とりとめなく意識のシャッターを上げていると、
空想の世界に融けこんでいく。

 幼い頃、彼の父は、江戸川乱歩の推理小説を彼に買い与えた。
深夜、家族が寝静まった頃にひとり、その表紙に見入って、
未だ知ることのない恐怖の世界に浸った。
洞窟の底に座る巨大な仏像を懐中電灯で照らし、
恐怖におびえる主人公の少年や
暗い海に浮かぶ幽霊船の甲板に横たわる骸骨姿の船員など。
やがてその習慣は快感となり、
謎や不思議を伝える絵や物語を本の世界に求めた。

 そんな少年時代に北原白秋の処女詩集『邪宗門』と出会った。
真っ赤な表紙には奇妙な動物たちの絵が描かれ、
カトリックの「IHS」の文字が金色に輝く。
ページをめくると、異国の宣教師が東洋の陸の上をマント姿で歩いている。
その不思議さに心ときめき、
韻を踏む響きのよい日本語とともにお気に入りの一冊となった。



 今、彼は世界遺産に指定されたマカオの歴史地区をひとり歩いている。
セントポール大聖堂を降りる道すがら、
土地の神様を祭る祠から線香の香りが漂う。
街の人たちの表情はとても柔らかく、大声でどなる人や、
しつこいみやげ売りの姿もない。
聖ドミニコ教会では、信者たちが祈りを捧げていた。
セナド広場の噴水の周りにあるのは人々の笑顔だけで、まさに平和な風景だ。

 噴水の横から小さな石造りの階段を上り「フェルナンド」という
ポルトガル料理レストランに入った。
イワシの塩焼きと、TINTOを注文した。
TINTOとは、中国語では紅酒と訳してあり、真っ赤な葡萄酒のことだ。
珍島(ジンド)ともいう。
懐かしい素朴な魚料理は、何度か訪れたポルトガルを思い起こさせた。
メニューを見ると、ARAKIがある。
シナモンやウイキョウで香りをつけた蒸留酒で、
水を混ぜると真っ白に変化する。
イスタンブールを旅して初めて出会った酒だ。
たしか、トルコではラキと呼んでいた。
目の前の輝くグラスに注がれた紅白の酒をみつめながら
「邪宗門秘曲」を呟いた。

  われは思ふ、末世の邪宗、
  切支丹でうすの魔法。
  黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
  色赤きびいどろを、
  匂い鋭きあんじゃべいいいる、
  南蛮の桟留縞を、
  はた、阿刺吉、珍?の酒を。

 あんじゃべいいるとは、オランダ語でカーネーション。
聖母マリアの流した涙の跡から生まれたという伝説を彼は思い出した。
そして今日が母の日であることに気づき、
赤いカーネーションを贈った。