天草・下田温泉の旅館「五足のくつ」は、九州は熊本にあり、離れの各客室に自家源泉・かけ流しの露天風呂が付く。天草四郎ゆかりの地。

 「ママにいつも聞かされたオロスコの天井画を観てきたわ。
ほら、写真もうまく撮れてるでしょ。ママが亡くなる前、
新婚旅行で行ったメキシコのグアダラハラのことをよく話していたから
入学式の前に行ってきたの」
天草空港に到着した理沙は元気そうだった。
「パパ、今日はごちそうしてね、一週間ぶりの日本だから、お寿司がいいわ。
私が小さい頃、3人で行った蛇の目寿司」
彼のかつての妻だった明子が先月死んだ。
彼女との間にできた一人娘の理沙から病の報せを受けてからわずかひと月後のことだった。

 「お母さんが大変な時期によく頑張ったな。
大学では何をやろうと思ってる?」
「世界中を旅しようって思っている。それはママが望んでいたことなの。
パパみたいに人の目なんか気にせず、自由に生きなさいって。
ママにはそれが理解できなくて、
パパのわがままにしか見えず離婚してしまって、後悔しているって言っていたわ。
入院してからは、もう一度、グアダラハラをパパと一緒に歩きたいって言っていたの。
オスピシオカバーニャスのベンチに寝っ転がってオロスコの天井画を観てみたいって。
パパ、叫んだんでしょ、俺もこんな迫力ある表現がしたいって。
だからパパは、あの絵にインスピレーションを受けて
ホテルGを創ったに違いないってママは言っていたの」
両親が新婚旅行で訪れた街を、理沙は見たかったのだろう。
しかも、その両親は離婚している。
明るく振る舞ってはいるが、彼女の心の底には、
身勝手な男と女のために傷つけられた少女の悲しみの澱が漂っているはずだ。

 「20世紀、スペイン人の圧政により虐げられた人たちによって革命が起きた。
革命後、政府は、メキシコ人としてのアイデンティティを国民に伝えるために
独自の歴史を壁画によって伝える運動を起こしたんだ。
オロスコはその題材をインディオとスペイン文化が衝突した大航海時代に求め、
おれも天草の…」
 酔いにまかせてしゃべり始めた彼の前に寂しそうな表情の理沙がいた。

ハネムーン初夜、テキーラに酔って歩く二人の横に
バイオリンやギターを持つ、ソンブレロ姿のマリアッチが寄ってきて
『見上げてごらん夜の星を』を日本語で唄ってくれた。

 手をつなごう僕と
 追いかけよう夢を
 二人なら苦しくなんかないさ
 僕らのように名もない星が
 ささやかな幸せを祈ってる

 綺麗な星空だった。新妻は、夫の話す夢物語を頼もしそうに聞いていた。
のちに「別れ」を言い出したのは、妻からだった。
夫の描く途方もない夢と現実とのアンバランスに嫌気がさしてきたのだった。
何度も心のなかで「大ほら吹き!」と叫んだ。
だが、彼にとって明子は最愛の女であることに変わりはなかった。

 「ママの臨終のことばを教えてくれないか」
「“もう一度、パパと夢を見たい。”
ホテルGに行ったら、もう一度、私を抱きしめてくれないかしらって何度もいったわ」

彼の目がうっすらと赤らみ、そして緊張が解けたように涙がとめどなく流れた。