天草・下田温泉の旅館「五足のくつ」は、九州は熊本にあり、離れの各客室に自家源泉・かけ流しの露天風呂が付く。天草四郎ゆかりの地。

 彼は、30年ぶりにソウルを訪れた。
報道で伝えられるオリンピック後のめざましい経済発展と、
最近の韓流ブームで注目される映画やテレビドラマなどから
予想していた以上にソウルは激変していた。
屹立するビル群や颯爽と走りぬける韓国製のスタイリッシュな車、
ビジネススーツのデザインなども
「ソウルスタイル」といえるところまで昇華されていたように感じる。
しかし、一歩路地裏に入ると、
そこにはかつてのプルコギ食堂が今も変わらぬ風情を伝え、軒を連ねている。
夜のみならず、ランチタイムにも男性同士、
女性同士のビジネスマンがキムチチゲを突っつき合っている。
韓国人のバイタリティはこの食欲にあるのだろう、と彼は思った。

 全寮制の高校に入学を控えた春休み、普段、口も開いてくれない父親が
「焼き肉を食べに行くぞ」と
彼と姉をソウルに連れて行ってくれた。
まず、漢江を遠くに見渡す小高い丘の上から桜を見た。
まだ五分咲きではあったが、食べ盛りの彼にはそんなことはどうでもよかった。
「ヤキニク、ヤキニク」と心の中でつぶやいていた。


 彼にとって、父親は怖い存在だった。
気に入らないことがあると、無言でゲンコツをよくくれた。
だから、彼は父親の一言一言をよく覚えている。

「春になると、みんな忙しくなる。入学、進級、就職、転勤…。
木や草も日に日に緑が萌えだす。
小鳥もさえずり初め、海や空の青さも鮮やかになる。
人間だって心がウキウキして、何やら楽しい気分になる。
でも…」
 彼と姉は、緊張して次の言葉を待った。
「でも、周りだけ変化して、自分だけが取り残されたように感じる時がある。
特に、春に失くしたものがあると、春の匂いにさえ敏感になる。
いいか、よく聞いとけ。
そういう心持ちになったときは・・・・・」
 彼はいったいどんな言葉が飛び出してくるのか、姉の手を強く握った。
父は言った。
「腹いっぱい食えばいい」。

 姉がくすっと笑うと、彼も笑いが我慢できなくなり、
おなかを抱えて笑い始めた。
父親の思い切り笑う姿を初めて見た。
その不似合いな格好をを見て、彼も姉もますます笑った。
笑いながら焼肉を食べる日本人の親子に、
通じないとは知りながらも韓国語で話しかけてくる
気さくなソウルの人たちが好きになった。
酒好きな父親は、新高校生の彼にビールをすすめた。
楽しい夜だった。

 今から十年前の桜の花の満開の下で、
父が納められた黒檀の棺を運ぶ彼の脳裏には、
この夜の楽しそうな父の笑顔があった。
そして偉大なるオプチミストの血が自分にも流れていることを
誇らしげに一歩一歩力強く歩いた。