天草・下田温泉の旅館「五足のくつ」は、九州は熊本にあり、離れの各客室に自家源泉・かけ流しの露天風呂が付く。天草四郎ゆかりの地。

天草の少女
葡萄の棚と無花果(イチジク)の
熱きくゆりに島少女
牛ひきかよふ窓のそと、
「パアテルさんは何処に居る。」

「お茶でもいかがですか?」
資料室で、「五足の靴」に読み入っていた私は、その声でふと我にかえった。
事務員らしき若い女性がテーブルにお茶を置き、私の方を見た。
「今日は雨だから、来られる方も少なくって…」
「あ、ありがとうございます」
私は本をテーブルに置き、湯のみを手に取る。
「最近は、郷土関係の作品を読まれる方って少ないんですよ」
私の読んでいた本を見て事務員はそう言った。
「五足の靴」は、北原白秋や与謝野寛らが西日本を旅した様子をつづった紀行文であり、
その中に、彼らが天草の宣教師を訪ねた場面も登場する。
おもしろい作品ではあるが、そこまで大衆的とはいえない。
「そうでしょうね。楽しいことは身近にたくさんありますから」
「私も、ここに勤めるようになってからいろんなことを知りました」
「いろんなこと?」
その問いに事務員はうなずく。
「ええ。例えば、今読んでいらっしゃる五足の靴のこととか、『石山』のこと。
聞いたことはあっても、理由や背景など深くは知らないことが多くて」
「『石山』ですか?」
地元では、陶石(陶器の原料)の出る山のことをそう呼んでいる。
天草は全国の約80%を産出する陶石の産地なのだ。
「私の祖父も『石山』で働いていたんです。
天草って何もない、ただの田舎だと思ってたんですが、
そこで切り出された石が陶器の原料になって
全国に運ばれていたなんて、ちょっと驚きました」
事務員はそういうと、よく通る明るい声で笑った。
ただの田舎…
海と山しかない、と言われればそれだけだが、
天草は明治の大詩人たちに多大な影響を与えた土地なのだ。
ただの田舎ではない天草の素晴らしさを多くの人に知らせたい、 私はそう思った。
雨はさらにひどくなったようだ。

「今日はどしゃ降りですね」
「ええ。帰るに帰れなくなりました。
じっくりこの本を読み返してみることにします」
事務員は、明るく、はきはきとしたしゃべりをする女性だった。
明るく、くったくのない豪快な天草の女性は、
ぼっちゃん育ちだった白秋にとって新鮮な存在だったに違いない。
「ごゆっくり」
そう言って立ち去った事務員のいた辺りには、
イチジクの香りが漂ってるような気がした。