天草・下田温泉の旅館「五足のくつ」は、九州は熊本にあり、離れの各客室に自家源泉・かけ流しの露天風呂が付く。天草四郎ゆかりの地。

包丁を研ぐ
ある夜、遅い時間に料理長を探して調理場へ入った。
すっかり片付けが終わったそこは一箇所だけ灯りがついている。
「お疲れさま」
声をかけると、まだ顔に幼さが残る新人の調理スタッフが顔を上げた。
「あ、おつかれさまですっ」
元気な声が調理場に響いた。
「料理長はもう帰宅した?」
「あ、はい。30分ほど前に」
「君は?」
「あ、この包丁を研いだら帰ります」
彼の手元には、3本の包丁と研ぎ石があった。

彼は、天草の高校を卒業し、料理の道へ入った。
父親はすでに亡くなっていると聞いた。
彼が研いでいた包丁は、同じく料理人だった父親の形見らしい。
料理長は、包丁を一心に研ぐ彼の姿を見ていると料理への心が伝わってくる、と言っていた。
「おやじさんから受け継いだものを大切にしているんです。
刃はだいぶ磨り減っていますが、切れ味は抜群ですよ」

後日、また、調理場へ入ることがあった。
夜遅くだというのに、いい香りが漂っている。
彼ともう一人の調理スタッフが何か作っているところだった。
「やあ、おいしそうだね」
調理台には、できたての煮物が皿に上品に盛り付けられていた。
「今日、料理長が作られていたものを作ってみたんです」
もう一人の調理スタッフが言った。
仕事の合間に見よう見まねで覚えたものを、夜遅く練習しているのだろう。
「オーナーも味を見てもらえないでしょうか?」
彼は、恥ずかしそうに小さな声で「ぜひ、食べてみてください」と言った。
「じゃ、いただこうかな」
白身魚の煮物だ、味がよく染みている。
彼の料理へのひたむきな心を感じさせる味だった。
「うん。おいしいよ」
彼の顔が輝く。

きっと彼は今夜もあの包丁を研ぐのだろう。そして、また明日も。
磨き続ける包丁はすばらしい切れ味を保ち、彼の料理への思いもまた磨かれていく。
私は温かな雰囲気の漂う調理場を後にした。